君たち男の子

 ふむ,男は孤独なのかもしれない。もっとも人それぞれじゃないかな。小学校の頃から女の子同士と男の子同士の友達との付き合い方や遊び方は,ステレオタイプらしきものがあったし,今でもそれは再生産されているんじゃないだろうか。
 生物的な差異がそれぞれの人間の付き合い方に強い影響を与えている面があることは否定できないし,そればかりでなく個人個人の生き方によって男であろうと女であろうと孤独と付き合うことになる人があれば,他者と和気あいあいと生きていくことができる。だから,たぶんこの話は「そういう傾向がある」って話だろうし,そういう男女観の再生産が依然として働いていることの確認になるのだろう。
 この話題のもうひとつ興味深い側面は,男の孤独っていうものが「頼りがいのある存在」という強さ関することとして語られるのではなくて,「一人寂しい存在」としての弱さや苦しさのこととして語られることが,顕在化したっていう点である。その表裏が逆転したというか,強さの代表は「出産をする女性の頑強さ」に奪われてしまったというか。
 それはどこから始まったのだろう。男達が軟弱化したという80年代的な社会の雰囲気に乗じて現れてきたのだろうか。あるいは陰謀論的にいえば,フェミニズム論者達の牙を抜くためにどこからか流布された似非女性頑強論であって,それに誰もかタダ乗りしてしまったということなのだろうか。あるいは男性的なものの象徴である経済好景気がバブル崩壊によって崩れ去ったことによる,お父さん達の元気のなさによって実体化したそれなのか。
 男の子がパソコン通信的というなら,女の子はインターネット的という感じ? 確かに女子学生たちを見ていると,グループを上手に組んで学生生活を送っているし,そうかと思えばグループ再編も目まぐるしかったりして,気がつけばまた違う顔ぶれで集まっていたりする。孤独な私は,そんな環境においてはさらに孤独な男子なのだが,パソコン通信がインターネットメールできるようになってます的な付き合い方で,なんとか生き残っているという感じだ。
 仕事に追われていたり,熱中するものがあるときには,男だろうと女だろうと孤独が隣りにいるものさ。そういうもんじゃないかな。