気分転換に見るWebニュースで,学校や教師の不祥事に関する報道が絶え間ない。それを報道する者の凝固した想像力と粗雑な文章力のせいで,現実がもつニュアンスは紋切り型の不祥事ものへと処理されているのが読むだけでわかる。もちろん,こういう報道記者に対する固定観念も疑う必要があるのかも知れない。けれども,見せ物的なニュースがこうも日常茶飯事にもたらされると,この人達,学校教育に残されたわずかな信頼さえも失墜させようと意気込んでいるのではないかと思いたくもなる。
もっともこの頃,学校現場とインターネットという取り合わせの狭間で起こっている事件は確かに多いし,私とて,教育現場を職場としている人間ゆえ,長らく続けている個人Webサイトについて,再考しなければならない時期にきていると思う。メディアに関する授業準備をする中で,そんなことも考えていた。
私はパソコンの先生で雇用され,サラリーをもらっている。「情報技術」周辺の事柄について関心があり,月並みだとしてもスキルを持っていたからだ。もっとも,個人的な研究専門分野は「教育」だから,「情報技術」と「教育」が重なるあたりに研究者として身を寄せていることになる。
けれど,私の中では社会・人文科学系の問題意識の方が高いらしく,そういう観点から,「学校教育にパソコンやインターネットが入るなんて事の大変さに私たちは対処できるのか?」と憂いでいる自分が常に内在している(ラッダイト的感性?)。
私は可能性について目を背けているつもりはない。脳天気な私は,結構いけいけドンドンな人である。面白いことに挑戦しないなんてあり得ない。けれども,可能性に目を奪われることで,取り返しの付かなくなる事柄には何度も出会ってきた。だから,周りの人々が可能性を論じるなら,私は懸念を表明するバランサーとして身を置きたくなるのだ。
不祥事報道や学校批判記事などに接するとき,たぶんそういう自分の中のバランサーが働くのだと思う。そのうえで自分の態度を選択しなければならないし,行動もしなくてはならない。
もっとも,健康状態や生活の慌ただしさによって,自分のバランサーがうまく働かなくなることは多いけれど。