活字とフォントを想いながら

 書かれた計画が実践されることの過程に関心があって、カリキュラム研究の世界に足を踏み入れたのだけれども、その問題意識をうまく主題にすることもままならず、幾年も時間が経ってしまった。

 書かれたものと実践することの狭間。

 パソコンとネットワークが、この問題ととても関わりがあることを直観したことから、情報とカリキュラムを考えることが私のテーマだと悟って、領域の越境を試みたものの、もともと要領がよいわけではないから、越境だけでくたびれてしまった感じがある。

 国の事業に関わることになって、七転八倒を演じてみたことで、いまさらながら過去と現在と未来を見通すことの重要性と,自分の関心がこの見通しの関係性と重なることを理解した。

 過去の積み重ねと未来を指向する現在。

 正直なところ、私は歴史が苦手な児童生徒学生であった。記憶せねばならない対象としてのそれは、私の手に余るものだった。けれども、歴史の重みを七転八倒の中で再確認する。私たちは過去を無かったことにして現在や未来だけに関わることはできない。そのことを嫌というほど感じた。

 過去を見直す作業を始めた。

 まずは文献資料を掘り起こして整理することから。もっと早くに始めておけばよかったとも思う。でも今始められてよかったとも思う。

 過去の文献資料は、コンピュータで検索できるようになったとはいえ、実物は活字印刷物であることがほとんどである。1995年頃にインターネットが普及し出すまでは圧倒的に活字印刷物が主流であり,21世紀に入ると電子資料といったものがあれこれ増えてくる。

 活字とフォントによって表記された資料を縦横無尽に集めて整理する作業は大変である。作業自体はまだ途上なので,途中成果といったものも乏しい。

 しかし、記録を確認する作業にあって、その信憑性を推し量ることがこんなにも慎重を期さねばならないものだとは想像もしなかった。

 フォントによって表示された電子資料は、改変性の高さもあって信憑性に一定の疑念を持ち続けなければならないというのは、ある程度承知もしていたし,覚悟していた。

 活字によって印字された印刷資料は、学術論文ならば査読の手続きによって信憑性が担保されているが、そうではない著書や雑誌論稿には誤字や誤認や曖昧さが少なからずあり、発表時期の古さと相まって事実確認に手間がかかることも多い。

 過去を見直す作業の必要性は確信になっているが、半世紀にも満たない歴史を振り返るだけで、こんな苦労を背負い込む実情に唖然ともしている。でも、最近は楽しくなってきている。

 そして、〈デジタル教科書〉関連本の件である。

 2010年頃から賑やかになってきたテーマであるから,それに関連する書籍がいくつか出版された。関心の高い問題にいろんな文献資料が登場することは好ましいと思うが,問題を抱えたものもある。

 特に私は次の2冊については、問題が大きいと考えている。

 ○中村伊知哉・石戸奈々子『デジタル教科書革命』ソフトバンククリエイティブ2010
 ○新井紀子『ほんとうにいいの?デジタル教科書』岩波ブックレット2012

 この2冊の著者達は〈デジタル教科書〉に関する動向の中枢に関わる当事者でありながら(であるからこそかも知れないが…)、劣悪な著作を活字として世に出した。

 何をもって「劣悪」と書くのかといえば,先々の時代に過去の文献資料として参照された場合、信憑性のある資料としての価値を大きく落としているからである。

 たとえば、中村伊知哉氏と石戸奈々子氏の著作は、他者の著作物の一部を無断引用した疑惑を抱えている(関連情報)。この事実に対して釈明などがないまま著作は絶版化し、図書館などに所蔵されたものが閲覧できる状態にある。

 当世の読み物としての価値を重視しただけなのかも知れないが,デジタル教科書に関して理解を得て推進しようとする立場の人間が、このような中途半端な著作の放置の仕方をするのは褒められた姿勢ではないし,記録として残る文献資料としては信頼性に大きく欠けることになる。

 新井紀子氏の著作は、上記のような問題はないものの、著者自身が謳っているような平等な議論の理解をしようとするには、大小多くの問題点が含まれている。

 この本を「あるデジタル教科書懸念派の数学者が書いた問題提起」と割り切って読めば,それほど大きな問題ではない。その偏った問題意識も乱れた文章展開も、懸念と批判のためであると明らかであれば、読み手はいくらでも調整が可能だからである。

 しかし新井氏は、あくまでも論点をまとめサイトのように分かりやすく提示しているだけだと主張し,自分自身は当事者ではなく中立な第三者な風を装っている。これでは、記録として残る文献資料として後世の人々を欺くことになってしまう。

 過去の文献資料を調べる作業をしている身としては,このような記録の残し方がとても腹立たしく思えるのである。こんなことは、現在の私にとって損得にはならないが、未来の私と同じ作業をする人間にとっては面倒な苦労になる。そう思うと恥ずかしくすら思う。

 一般書に対して何を怒っているのかと思われるかも知れない。昔の一般書だって正確さや出来に関して褒められるものが多いわけじゃない。そもそも一般書ってそんなもんじゃないと割り切ることが自然なんだと多くの人が思っているだろう。

 私もそれがジャーナリストや作家や編集者が書いたものなら、目くじら立てる気もない。斉藤貴男が『世界』誌の連載でフューチャースクール実証校の数を間違えて記述したとしても,別にそんなの気にしない。

 けれども、この3人はそろいも揃って研究とか大学とかと深いかかわりにあり、デジタル教科書に関しては主要なアクターという当事者の立場にある人間である。そういう立場にある人間が,印刷書籍においてこんな乱暴な仕事をしていることを、受け手である私たちが腹立たしく思わず、他に誰が腹立たしく思うべきなのか。

 私はこの3人に猛省を促したいし、この2冊の著作について無批判に扱っている人間に対しては、その真意を問うなど厳しい態度をとらざる得ない。

 もちろん、こうした批判は、私自身にも向けられる可能性はある。

 後世に役立つ記録を残し得ているのだろうか。頼まれ仕事で書いた一つひとつの文章は、読み手を欺いてはいないだろうか。真意を届けるために言葉を選び間違えてはいないだろうか。

 活字媒体のための原稿はもちろん、こうしたフォントによる電子媒体に書く文章も、気を配りながら書いている。

 確かに、主張を効果的に見せるために、芝居がかった言い回しは飛び出す。小気味よさや、見栄を切った文章は、小さいながらも人々の感情に働き掛けて、私が正論を述べているように見えるよう誘導していることだろう。

 だからこそ、そのことをいつも傍ら自戒しながら、できるだけ気を配って文章を書き綴るしかない。

 両親に感謝するこの日に、あらためて自分の作業を確認しながら、そう思いを新たにした。

 まだまだ頑張ります。