今日もヴィゴツキー日和り…

 今日も午前中から大学にやってきてヴィゴツキーの文献を眺めている。おおよその俯瞰図を描いてから細部を埋めようとする質なので,あっちこっちの文献を行ったり来たりして,自分の中の整合性を調整している。この作業に時間がかかるのが,私の要領の悪さである。ああ。

 ヴィゴツキーの生涯は,37年ほどと短かったが,残した業績の影響の大きさは計り知れない。というか,彼の「心理学における道具的方法」という理論を知るにつけ,この重要な原理的知見が80年代になってようやく世界的な注目を集めて再評価されているという事実に,唖然としてしまうのである。それは私が生きているうちに起こっていることだったのだから…。
 ヴィゴツキーの生きていた当時,心理学の世界において主流であったのは,行動主義的な考え方だった。もの凄く単純化したところだけ言えば,刺激と反応という連合(SとRの連合)で表される世界観といっていい。何か原因があって,それがストレートに結果につながるような構図である。全てはそうした単純なS-R連合へと還元できるというわけだ。
 で,ヴィゴツキーは「それじゃ見落としてしまうものがあるんじゃない?」と疑問を投げかけて,SからRへの単なる直線経路ではなく,媒介物Xを置いたS-XとX-Rの経路を提示して見せたのである。曰く「こうした新しい経路による構造が重要だ」と。
 このXという媒介物は,私たち人間の精神について考えれば「言語」であるといえる。そして「言語」というのは文化的で歴史的なものであるので,この考えに基づく人間の精神の発達理論を「文化−歴史的発達理論」という風に呼ぶ。ヴィゴツキー理論と言った場合には,この文化−歴史的発達理論のことか,それを含んだものということができる。
 「媒介物を経由した,その構造が新しい」となると,それはまあそうだろうし,何も難しそうな部分がない。けれども,そのシンプルさゆえに,その考え方は強力だし,基礎的な知見としての耐性もあるわけだ。
 こうした重要な概念を打ち出したのがヴィゴツキー30代のこと。それまでの間に,いろいろ考えていたとすれば,若き日の彼の優秀さがここからも理解できる。なるほど「心理学におけるモーツァルト」と評されることも納得できる。

 と,ヴィゴツキーな時間を過ごしているが,今日は共同担当者との打ち合せの日だったにもかかわらず,待てど暮らせどやってこない。どうやらフラれたらしい…。さては,お盆モードで忘れたな。まあ仕方ないか。
 なんかこのまま一日終わるのも面白くないので,上野に出かけてみるか…。