短大教員としての最後の授業も終え,そして後期定期試験期間も終わり,残すは成績の転記ぐらいの今日この頃。時間的余裕ができそうなものだが,いつものパターンで校務を始めとしてあれこれ雑用が舞い込む。研究室の掃除も悩みの種だ。思い出の品が掘り起こされると感傷的になるし,昔の雑誌など思わず見入ってしまう。
再度「勉学」という道筋に向かおうとすることに対する周囲の反応は様々。もちろん驚かれることが多い。「まだ勉強するんですか」という声を聞くと,内心「そんなに珍しいことなのかなぁ」と思ってしまう。生涯学習社会と言われてだいぶ経つけれど,浸透具合の程はまだまだといったところか。
ところで,『中央公論』2006年3月号に,苅谷剛彦氏の論考が掲載されている。「「自ら学ぶ力」べた褒め社会の光と陰」という論題でなかなか興味深い。似たようなことを考えていたから,面白く読めた。
さてさて,反応のもう一つには,「もったいない」というものがあるだろうか。面と向かって言われはしないが,こちらが「下流に飛び込みます」と水を差し向けてみれば,やはり「なぜ,わざわざ職を捨てて」という思いがあるようだ。なにしろこのご時世,大学・短大の専任教員になるのは至難の業と言われている。職を得ても任期付きというのが当たり前。黙って働いていればお給料がもらえ,賞与も保険も万端な今の肩書きから退くなんて,よっぽど職場で何か問題があったに違いない,と人は思わないわけがない。
問題のない組織なんてないと,常々思っているので,そういうことを引き金に退職するわけではないのだが,勉強や研究のためのエネルギーを奪われること自体に危機感を抱いたのは確かである。雇用という点では安泰。けれども,この職業,勉強や研究を続けなくてはやっていけないのである。知的衰退をしていく自分を眺めながら歳をとるのは,耐えられそうになかったのである。ただそれだけ。
苅谷論考に寄り添って表現すれば,私も人的資本主義の世界でうまく自分に投資する資本家であろうとしているのだろうか。肩書き的には助教授まで拝命しながら,ぽーんと蹴っちゃえるのは,それなりの人的資本を形成している安心感があるからと見られてしまうのかも知れない。そんなに生やさしくないんですけど,現実は。
もちろん,周囲の助けがあって初めて可能な挑戦である。これまでにお世話になっている方々やこれからの出会い人たちにも感謝する気持ちを忘れずに,相変わらず無茶しながら頑張りたい。想いに報いるには,それしかない。